Talk 41 (15)

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D.: I meditate neti-neti (not this – not this).

M.: No – that is not meditation. Find the source. You must reach the source without fail. The false ‘I’ will disappear and the real ‘I’ will be realised. The former cannot exist apart from the latter.

信奉者:私は、「これでもない。これでもない」と瞑想をしています。

マハルシ:違う。それは瞑想ではない。その根源を探るのだ。あなたは確実にその根源に達しなければならない。「私」という偽りは消え、本当の「私」だけが悟られるだろう。前者は、後者を離れては在りえないのだ。

Talk 41 (14)

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D.: Is there any individuality for the Jnani after Realization?

M.: How can he retain individuality? Even ordinarily the elders advise achamana and pranayama before undertaking any work – be it worldly or other-worldly. That means, concentration of mind accomplishes the work.

信奉者:悟った人間は、悟りの後も個性があるのでしょうか?

マハルシ:悟った人間が、どのように個性を保持することができるというのだろうか?通常でさえ、老人は、どんな仕事をする前にも(世俗のものであろうとなかろうと)、浄化の儀式や呼吸の統御をアドバイスするものだ。つまり、心の集中が作業を完成させるのだ。

 

Talk 41 (13)

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D.: Is hatha yoga necessary?

M.: It is one of the aids – not that it is always necessary. It depends upon the person. Vichara surpasses pranayama. In Yoga Vasishta Chudala advises investigation (vichara) to Sikhidvaja for killing the ego. Reality can be reached by holding on to prana or intellect. Hatha yoga is the former; Vichara is the latter.

信奉者:ハタ・ヨガは必要ですか?

マハルシ:それは補助の一つであるが必ずしも必要なものではない。人しだいである。熟考は呼吸の統制に勝る。ヨーガにおいては、Vasishta Chudalaは、Sikhidvajaに対して、自我をなくすのに、熟考をアドバイスしている。生気や知性をしっかりつかむことによって、真の現実に達することができるのだ。ハタヨガとは前者であり、熟考は後者にあたる。

Talk 41 (12)

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D.: What is the method?

M.: ‘Who am I?’ is the investigation.

D.: May we perform japa?

M.: Why should you think I am this? Investigate and the thoughts cease. What is, namely the Self, will be revealed as the inescapable residue.

信奉者:その方法とは何ですか?

マハルシ:「私は誰なのか」という探求である。

信奉者:マントラを繰り返し読むといったことでもよいのでしょうか?

マハルシ:なぜ「私はこうである」とあなたは思うのか、よく考え、調べなさい。そうすれば思考が止む。真に存在するもの、すなわち真我だけが、逃れざる残余として明らかにされるだろう。

Talk 41 (11)

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D.: What is that one thing, knowing which all doubts are solved?

M.: Know the doubter. If the doubter be held, the doubts will not arise. Here the doubter is transcendent. Again when the doubter ceases to exist, there will be no doubts arising. From where will they arise? All are jnanis, jivanmuktas. Only they are not aware of the fact. Doubts must be uprooted. This means that the doubter must be uprooted. Here the doubter is the mind.

信奉者:それを知ることによって、すべての疑念を晴らすような、そんな一つのこととは何ですか?

マハルシ:その「疑う者」を知りなさい。疑う者が捉えられば、疑いは生じない。ここにおいて、疑う者とは超越的な存在である。もう一度言おう。疑う者が消える時、疑いは生じない。どこから疑い生じるというのか。すべての人が真我を悟ることができる。ただ、その事実に気がついていないだけなのだ。疑いは無くさねばならない。これは、疑う者を無くさねばならないことを意味する。ここにおいては、疑う者とは「心」のことである。

Talk 41 (10)

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If Karma be your lot according to prarabdha, it will surely be done whether you will it or not; if Karma be not your lot, it will not be done even if you intently engage in it. Janaka, Suka, etc., were also in work without ahankara, Karma may be done for fame, or may be done unselfishly and for the public good. Yet even then they want applause. So it is really selfish.

マハルシ(続き):もしカルマが、過去のカルマの集大成に従って、あなたの運命であるならば、好むと好まざるとに関わらず、それは必ず行われることになる。もしカルマがあなたの運命でなければ、たとえあなたがひたすらそれに関与しようとしても、それは行われない。JanakaやSukaなども利己心なしで努力をしていた。カルマは名声のために、あるいは非利己的に、公共の善のために行われるかもしれない。しかし、そうした時でさえ、彼らは喝采を欲するのだ。それゆえ、それは本当は利己的なのである。

Talk 41 (9)

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D.: Is a man to engage in teaching his knowledge however imperfect?

M.: If his prarabdha be that way. In the seventh chapter, Arjuna asks if Karma is a method (sadhana). Krishna answers that it is so if done without the sense of doership. So also are Karmas approved by scriptures which deny Karma. The Karma disapproved by them is that which is done with the sense of doership. Do not leave Karma. You cannot do so. Give up the sense of doership. Karma will go on automatically. Or Karma will drop away from you.

信奉者:たとえ不完全であったとしても、人は自分の知識を教えることに従事するべきでしょうか?

マハルシ:もし、彼のカルマの集大成がそうであれば、そうしてよいだろう。第7章において、Arjuntaはカルマは一つの修行であるかどうかを尋ねている。Krishnaはこう答える。「もし自分が行っているという感覚がなく行われるのであれば、その通りである」と。カルマを否定する聖典によって認められているカルマもまたそうである。そうした聖典によって認められていないカルマとは、自身が行っているという感覚をもってなされるものである。カルマから離れてはならない。そうすることはできないのだ。自分が行動しているという感覚を捨てなさい。カルマは自動的に進んでいくものだ。あるいは、カルマがあなたから離れていくだろう。

Talk 41 (8)

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D.: The term ‘jnana’ is realised Wisdom. The same term is used for the method also. Why?

M.: ‘Jnana’ includes the method also because it ultimately results in realisation.

信奉者:jnanaという言葉は、悟られた知恵という意味ですが、同じ言葉がその方法にも使われますか?また、そうであれば、それはなぜでしょうか?

マハルシ:jnanaはその方法も含んでいる。なぜなら、それもまた究極的には悟りをもたらすからである。

Talk 41 (7)

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D.: You have spoken of the Heart as the seat of meditation?

M.: Yes, it is also that.

D.: What is Heart?

M.: It is the centre of the Self. The Self is the centre of centres. The Heart represents the psychic centre and not the physical centre.

信奉者:あなたは、かつて瞑想の座としてHeartについて語ったことがありますね。

マハルシ:ある。それもまた同じである。

信奉者:Heartとは何でしょうか?

マハルシ:それは真我の中心である。真我とは中心の中の中心だ。Heartは霊的な中心であり、肉体的な中心ではない。

Talk 41 (6)

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D.: The Gita says that if a man fixes his attention between the eyebrows and holds his breath he reaches the Supreme state. How is that done?

M.: You are always in the Self and there is no reaching it. The eyebrow is only a place where attention is to be fixed (seat of meditation – upasanasthana).

信奉者:Gitaには、もし人が眉毛と眉毛の間に意識を集中し、息を止めるならば、至高の状態に達することができる、と書いてあります。どのようにすればよいのでしょうか?

マハルシ:あなたは常に真我の中にいる。それに「到達する」ことなど不可能だ。眉間というのは、単に意識が固定される場所に過ぎない。